今回の森のようちえん全国フォーラムでもこの「見守る保育」というキーワードが出てきました。
見守るとは何を見守るのでしょうか。
「見守っていたんですけど、崖から落ちて死んでしまいました。」
絶対に許されないことです。
ここでも「見守る」という言葉が一人歩きし、イメージだけが先行し、肝心の中身が吟味されないまま保育されるというのは恐ろしいことです。
私たちは何を見守るのでしょう。
森のようちえんでもまずは何より、安全であることが何よりです。何が危険かということは子どもたち一人一人危険回避能力が違うので、一概には言えませんが、ここでも対象理解ということが重要になってきます。個別の理解とフィールドの理解。
子どもたちの心の内面からわき出ずる自発的な行為と自分からやろうとする思いを大切にする。
子どもたち自身の問題解決に向けた関わり。
子どもたちの心の内面の動き。
森のようちえんにせよ、見守る保育にせよ、イメージと言葉が先行うすると、中身が抜け落ちることがあるようです。私たちは「それってどういうこと?」と自分たち自身で考える作業、思考を停止してはいけないようです。
それと並行して、指導者養成においては見守る保育、森のようちえんにおける保育者の態度や資質について、細分化して要素を提示していかないと言葉が勝手に一人歩きし、とんでもない保育が「見守る保育」、「森のようちえん」と呼ぶことにもなりかねません。
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