「〇〇遊びと〇〇遊び、どれにするか選んで」
選択制の保育と「選択させる保育」は違うのではないかと思います。
アメリカで開発された保育環境を客観的に評価する基準として保育環境評価スケールがありますが、そこでは保育環境における子どもの選択肢の数が評価の対象となっています。
これしか遊べない、といった選択肢がない保育環境よりは、〇〇遊びも出来るし、〇〇遊びも用意されている。その中で自由に選んでいい、そんな環境がいいに決まっています。
でも、冒頭で書いた、
「〇〇遊びと〇〇遊び、どれにするか選んで」
と選択を迫られて、どちらか選ばさせられて、自分はこっちで遊びますと宣言させられて、なおかつ変更も容易でないのは、自由とは言いません。
私たちは子どもの選択の自由と選択制の保育の中身を精査しないといけません。
選択制の保育とは、子どもの自由を認めるものです。
選択することすら決められて、強要される保育は自由とは言えません。
どれを選ぼうが自由。
それが本当の意味での保育環境の選択肢です。
しかもその選択を先生に表明する必要もない。
子どもの管理上、どこで何をしているかを先生が把握するために子どもに選択させて、子どもの位置を把握しようとする管理保育に反対です。
そんな保育は子どもにとって自由じゃない。
ずっと違和感があった選択制保育の闇がこれだ。
言葉だけで子どもの主体性を認めます、子どもの選択を保障します、みたいなことを言っても所詮は管理保育。
どこで遊ぼうが、何して遊ぼうが、誰と遊ぼうが子どもの自由。
それをどこで遊ぶか、何して遊ぶか、誰と遊ぶかを最初に決めさせて、一度決めたら変更不可能なんて間違っています。
変更可能だとしても、逐一「変更します」みたいな変更届を出さないと変更できないなんてルール、保育者の考えることではない。
我々は管理者ではなく、保育者です。
子どもの自由を守り、子どもにより良い保育環境を用意するのが仕事です。
子どもにとって魅力的な自然環境を用意しましょう。
そこではどこで遊ぼうが自由です。
その自然環境で子どもがどこで誰と何をして遊んでいるか観察するのが、保育技術です。
技術がなく、保育経験が浅い人は観察するスキルとノウハウがないから、子どもを規制する。
「〇〇遊びと〇〇遊び、どれにするか選んで」という似非選択保育で、さも子どもの選択肢を保障しているみたいな保育をする。
私たちは経験を積み重ね、子どもの自由を保障し、かつ安全に子どもを見守る技術があるから規制する必要も、どこで何をして遊ぶかを決めさせるような拷問もしない。
保育とは本来、もっと楽しいものです。
そんな楽しさを知らないで、管理と安全を求められるものだから、子どもを管理するしかない。
そんな悪循環を断ち切り、野外で子どもと楽しく保育する森のようちえんが増えることを願っています。
森のようちえんの滝山ネイチャークラブ
代表 堀岡正昭