仕事でトイレ掃除があるとしよう。
それは誰のためにしているのか。
お客さんのためか。一緒に仕事をしている仲間のためか。
それとも仕事だと言われているからこなしているのか。
こういう人がいるかもしれない。
「お客さんなんてそんなところまで見ていないですよ。」
「汚れていないからそんなにしなくてもいいんじゃないですか?」
そのうち、AIでトイレ掃除を済ませる時代が来るだろう。
「AIで汚れをキャッチして、見えない汚れも自動で掃除してくれます。」
何も分かっていないな。
トイレ掃除は仕事だと思っているな。
トイレ掃除は人のためにすると思っているな。
トイレ掃除はね、自分のためにするんだよ。
誰が見ていようが、見ていまいが、それでもやるんだよ。
お客さんのため、他の人のためには違いないが、最初に自分のためにやったことが、結果人のためにもなるんだ。
人のためにやっていたんでは、そのうち疲れたり、報われないと思ったりするかもしれない。
「こんなにやっているのに、誰も評価してくれない。」と。
そもそも、誰かが評価してくれないからやらないなど、まったくもって意味が分からん。
他人の評価が自分の行動基準になってしまっているからそうなってしまう。
だから、人に評価してもらわないとモチベーションが上がらないなどと言う。
トイレ掃除は誰のために行うのか。
それは使う人のため、きれいにしておいて、気持ちよく使ってもらうため。
気が付いてくれるとか、褒めてもらえるとか、思っているようではまだまだ。
誰も気が付いてくれなくても、誰にも褒めてもらえなくても、それでも気持ちよく使ってもらえるように、喜んでもらえるように、そのことを想像して、人のために行動できる自分でありたいと願って行うのである。
一流のホテルの清掃の人は、「どうせ見てないから、どうせやったって分かんないから」と言って手を抜くだろうか。
見ていなくても、分からなくても、それでも相手のことを想って行動する自分自身に対する誇りがあるからだ。
それが仕事に対するプライドであり、自分自身に対する自信につながるのだ。
見ていないからやらなくてもいい、意味がない、ということは自分自身で決めていることである。
意味がないというなら、その仕事に対する自分自身の存在意義を自分で否定しているということになる。
意味は自分で見つけるのだ。
何のためにするんだろうと疑問に思うこともあるかもしれない。
それでも必死になって仕事に取り組み、なんでこんなことやんなきゃいけないんだと思ったり、時に褒めてもらえてちょっと嬉しかったり、そんなことを繰り返しながら、自分自身で問答していく中で自分で答えを見つけるものだ。
仕事とは、生きるとは、そんなことだ。
誰かに答えを求めても、決して納得はしまい。
納得はしても人から聞いたそれは陳腐ですぐに忘れたり、自分自身で否定してしまう。
自分で答えを出していないから。
だからこう書いても、偉そうにと思ったり、そんなのやってられっかと反発したりするかもしれないが、それでもいい。
トイレ掃除を人に言われたから、仕事だからと嫌々やっていてはおそらくすべての事象に不満があり、鬱々とした人生ではないかと想像する。
自分が変わればトイレ掃除も変わる。
四の五の言わないで必死になって取り組んでいったその先に、きっと答えが見えてくるだろう。
トイレ掃除は誰のためにしているのか問題の答えが。