「待つ保育」という保育観があるが、これには少し補足説明が必要だ。

何を待つのか。

この答えは私たちが自ら考えて答えを出さなければならない問いだが、「待っていてはいけないとき」があることも重要だ。

「『待つ保育』が大事だからと言われたので、待っていたら怪我をしました。」

ではだめなのです。

「待つべき時」には徹底して手出し、口出しは無用なのです。

「危ない!」とか「だめだめ」とか「あなたには無理」

誰が決めたのですか。

危ないか危なくないかは自分で決めます。

だめかどうかは一律ではありません。

無理かどうかは個人差があるのに、決めつけないで。

でも、待っていていけない時があるのも事実。

そんな時は悠長に構えている場合ではなく、フットワークを軽くして素早く動いて、働きかけていく。

本来、保育者というのはそういう存在だったのです。

「待つ保育」が良いとか悪いとか、そういうことではなく、本来保育者というのは、子どもをよく見て、ちゃんと働きかけようとして、そうしていたのです。

その保育者が自分自身に自信が持てなく、「○○保育」という言葉に縛られ、自分で考えるということを忘れ、本当に子どもにとってどうしてあげたいのか、その自分自身の主体性をどこかに置いてきてしまったとしたら。

私たちは、子どもの気持ちに寄り添い、子どもの権利を尊重した保育を目指したいと思います。

対象に応じて働きかける保育