実は、養成校でも、子どもを観察する技術を教えていません。
(すみません、「うちではちゃんと教えています!」という養成校の先生、いらっしゃいましたら大変申し訳ありません。訂正して発信いたします。)
「ちゃんと子ども見てね。」
とは言われても、その「ちゃんと」を教えていない。
保育は技術です。
正しく教わり、正しく学べば、本当は誰でも出来るようになります。
「車の運転と言うのは、一部の能力あるドライバーにしか出来ない。」ということはありません。
正しく教習所で学び、正しく練習すれば、誰でも運転できるようになるのと同じように、保育と言うのも正しく教わり、正しく学んで、練習すれば誰でも出来るようになります。
これまで保育実技と言われる、ピアノとか絵本、絵画・造形や手遊びを教えることはあっても、子どもを安全に見守る技術を教わらずに実習に来るから、「どうして子どもがいないのに、そこにいるの?」と尋ねると、「ハイ、あの先生に『ここのすべり台の所を見ていてね。』と言われました。」と答える実習生が後を絶たない。
江戸時代の小噺みたいな話で、火の番をしておけと言いつけられた奉公人が火事になっても「へい、ずっと火を見ていました。」みたいな笑えない小噺だが、現代においては、「火の何を見ておくのか」「どうなったら、どうしたらいいのか」「火の番をしておけという意味」を教えておかないといけないということでもある。
「子どもを見ていてね」では、子どもが棒を持って振り回していても「子どもを見ていて」、子どもがいなくなっても、「出ていくのを見ていました。」という笑えない小噺になってしまう。
実に難儀な時代になったしまったものだとも思うが、子どもを見るというのは、もう少し細分化して、伝える必要がある。
1.子どもの状態・行為・行動を観察する。
いわゆる、外見的、表面的な変化を見てくださいということです。
活発なのか、静かなのか、怒っているのか、泣いているのか。
実は防犯カメラでも捉えることが割と可能な状態の変化を観察するということです。
2.子どもの内面、心理状態、体調の変化を捉える、読み取る。
今度は、外見的な特徴だけではなく、内面的なもの、目には見えないものを捉えるということです。
集中しているのか、注意力散漫な状態なのか、疲れているのか、具合が悪いのか。
直接目で見て分かることもあれば、表面的な僅かな変化から、状態を読み取る、見立てが必要です。
これはまだAIには出来ないことです。
経験者でないと、読み取れない、または読み取ったとしても、精度が低かったりして、当たっていないことも多い。
この制度を高めるためには、自分なりに予測して、働きかけて、その予測が正しかったかどうかの検証が必要です。
3.アクションを起こす
実は、子どもを見ていてねというのは、単に観察しているという状態のことを指しているのではなく、必要に応じて、アクションを起こす、働きかけるということも含んでいるのです。
先の火の番の話では、火が大きくなりすぎて、延焼の危険があったら、火を小さくしたり、消火するという行為・行動をも含まれています。
自分の手には負えないと判断した場合には、主人を呼んだり、誰かに通報して、危険を知らせるという行為が含まれているはずです。
「子どもを見ていてね」という言葉には、実はこうした3つの依頼が含まれていたのです。
この共通前提が崩れてしまっている現代においては、ここまで伝えないと、「子どもを見る」ということを依頼する、一緒に子どもを見守るということが出来ないということになります。
子どもを観察する技術の前に、「子どもを見る」という大前提の共通理解に努めましょう。
自然遊びアドバイザー
堀岡正昭
