待つ保育の実践1

古い資料だが、今日の研修を受けて、改めて、自分の保育は「見守る保育」ではない。「『見守る保育』は手を引く」とあった。我々の目指す保育は決して「手を引く」と表現しない。手を引くのではなく、子ども自身が育つ力を信じて、積極的に“待つ”のである。
 あえて、当時のままに転載。
「見守る保育」ではなく、「待つ保育」の実践
平成13年度チャイルドデイセンター総括資料
「あっ、だめだめ、何やってんの!早くしなさい!」
 もう少し待っていたら(我慢ともいいますね)その子は自分でできたかもしれません。我々大人のなんと余計なことの多いこと。余計に手をかけたり余計な言葉をかけたりして。そして、それが立派な育児、立派な保育だと思われていることも事実です。果たしてそうでしょうか。我々大人の役目は子どもに手をかけることではなくて、どこまでも子どもの力を信じて見守る、積極的に待つということではないでしょうか。見守る、待つというのははたから見ると「何もしていない状態」と同じです。ところが、何もしていないのと子どもの力を信じてじっくりと観察してぎりぎりまで待つというのは大きな違いです。
 私は、どこまでもこの“待つ保育”見守る保育の実践者でありたいという思いから、次のことを目指します。
1.子どもとあそびの観察
2.あそびとや仲間関係、保育者の対応の記録
3.子どもが自ら活動を選択し、あそびだしていけるような環境設定
1.観察
 学童期にかかわらずまずは子どもをじっくりと観察することは保育者としてもっとも大事な基本といえましょう。「ただいま!」と帰ってきたそのときから観察ははじまっています。声の張りや調子、簡単に言うと“元気かどうか”ということですが、これがかなり重要。毎日見ているからこそ分かる昨日との違い。これにも注目しなければなりません。小さな声だからと「どうしたの?なんかあったの!」これでは子どもも話す気がしなくなるというものです。小さな違いに注意しながらもアタックは自然にさりげなく。これが学童期の子どもとつき合う上で大事なポイントかもしれません。
 チャイルドデイセンターでは子どもたちが自分たち自らあそびを選択し遊びだしていけるようにとの思いから自由な保育(一般には自由保育なんて括られてしまうのでしょうか。)を基本としています。それは教師主導の一斉授業形態の保育では子どもたちを比較し評価することはあっても子どもたち一人ひとりと向き合い彼らの気持ちや表現を受け止めていくことは難しいのではないかと考えるからです。「先生、好きなことばかりやっててそれでいいの?」って言われるかもしれませんが、ちょっと待って。一斉方式ではそれすらも見えてこないんじゃなくって?好きなこと、やりたいことがあるって結構大事。夢中になれるものがあるってことが子どもたちの集中力を養います。「そういう子が学校行って問題なのよね。社会性とか協調性ってどうなの?」そうなんです。締め付けてしまえば子どもは言うことを聞くし大人しくしているかもしれません。そういった言葉や態度で子どもを押さえつける事ができる先生が能力のある先生と言われた時代もあったかもしれません。けれどもそれが本当の社会性でしょうか。本当に仲間と協調するということを子どもたちは理解しているでしょうか。私はむしろ仲間といっしょに生活し、ときには喧嘩やトラブルを経験し、相手の要求の強さを身を持って感じ取り、そうした行為だけでは共存の道はないことを学んで、共有し、約束を作り、その中で楽しむことのできる仲間を獲得していくところにほんとうの道があると思うのです。私達は自由に遊びだしていく子どもたちをじっくり観察して、その中で一人一人の課題を発見し、ねらいを持って子どもたちに経験させたい事柄を設定します。そのための観察であって、そのための保育方法を採用しています。
2.記録
 さて、この観察というのは曲者で、はたから見ると「何もしていない。」「ほったらかし」にも見えますね。そうであってはならないという思いから筆記用具を携帯して常にメモを取ります。短い鉛筆やゴルフのペンが良いでしょう。現場においては子どもの声とその場で遊んでいる子どもの名前を記録します。そして保育終了後、メモを元に記録を起こしあそびや活動内容、仲間関係や保育者の対応を記録します。さらにこの観察記録をできるだけ一般に公開していきたいと思います。(不特定多数という性質とプライバシーに配慮して公開する内容には制限があります。)喧嘩にしてもトラブルにしてもただ黙って見ているのではありません。出ていく場面を見極めて経過を見守る必要がある場合にはそのプロセスを毎日の日誌に記録しています。それを参考に職員間で今後の対応を検討しています。

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