やられた側の気持ちに寄り添う

その子は手を出されるんだけど、相手は自分より小さかったり、同年齢でも理解や発達が幼くて、「あぁ、あの子なら仕方ないか。」と思っているようです。
だから、手を出されても平気なんだ、と。
それを親が見て不憫に思う。
それもよく分かる。「何で怒んないの!」「何で何にも言わないの!」「やられっぱなしじゃ、やられ損じゃない!」なんて。本当、その通り。でも子どもの方が、親をなだめて、「いいんだよ、あの子はこうなんだから。」なんて。
親がやり切れないということ。
これは保育者として、よくよく考えないといけないと思うんです。
感じ→考え→判断し→行動する
子どもを育てようとしたとき、他者に傷つけられて、でも相手は自分より小さいからいいんだと考え、我慢しよう、我慢出来るとしたら、それはむしろその子を褒めるべきではないか。「そうなんだ。」「そうだね。」と共感しつつ。
ただ、傷つけられて、嫌だなと思って、言いたいけど言えない、不満が募る、行動出来ないとしたら、保育者はその子に寄り添い、共感し、彼の気持ちを伝える媒介になるべきではないかと。
問題を解決する道筋は大変かもしれないけれど、その大変なことを丁寧に根気よく、行うことが保育ではないか。それを子どもたちと一緒に、子どもに寄り添い、子どもの気持ちに共感し、手を携えてやるのが保育者の役割ではないかと。
そこのところは丁寧に、そしてきちんと保護者にも説明し、伝えていく責任があるのではないかと思うのです。そうしたときに初めて保護者も「あぁ、この先生に任せよう。」と思っていただけるのではないかと、目頭が熱くなるのを感じながら書いています。

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